hapax

2012年10月23日火曜日

資本をとおすな



原発からは高圧送電線が張り巡らされている。
その送電線をささえるための巨大な鉄塔が等間隔に立ち並ぶ。
近年、ヨーロッパ反核のある部分が注目するのはそれら原子力装置の細部である。
スローガンは「高圧送電線をとおすな、鉄塔をたてるな」。
むろん、たんに電磁波が有害という理由からだけではない。

資本の地勢学というものがある。
それは点描する。線を引く。貫通する。ばら撒く。汚染する。
資本はそのように空間を再領土化していくのである。
原発装置においてあまりにもアカラサマであるように。
事故以前だろうと、以後だろうと。

上は飛行場建設反対の「レジスタンス」である。
ほかならぬ、資本装置による空間捕獲の同じロジックが問われている。
「ノー・パサラン(奴らをとおすな)」は反ファシズムだけの合言葉ではない。
それはいまや反資本装置闘争へと拡張されつつある。

装置=ファシスト。
ファシストをとおすな、資本をとおすな。


2012年10月21日日曜日

I miss you, London



なかにはいる――
ロンドンの蜂起にはそうした傾向がある。
近年の学生暴動や都市暴動を想い出そう。
学費三倍に反対して与党本部に乱入。
都市を遊動しつつ商店を略奪。
そして今回。


2012年10月16日火曜日

dreaming dangerously

















2011年とは何だったか。
アラブの春夏秋冬、OWS、ロンドン都市暴動。
ノルウェーのアンネシュ・ブレイビクによる連続テロ。
そして福島原発事故と反原発・反放射能のはじまり=再開。
ジジェクによれば2011年は「The year of dreaming dangerously」である。
2011年は危険な夢をみている、われわれの現在のうえに横臥しつつ。

夢からの覚醒は幻想であり、夢のなかにこそ覚醒がある。
なぜならそれがトラウマにも似た決定的な切断であるがゆえに、
なぜならそれが過去ではなく未来のしるしであるがゆえに、
われわれの新たな政治的リアリティはこの2011年のうちに占われるだろう。


2012年10月13日土曜日

カタストロフの現在



覚醒したカタストロフたちの宣言文より以下引用。 

***

反IMF宣言 2012・9・16

IMFよ、おまえによって破滅させられた世界が今度はおまえを破滅させるだろう。

IMFは世界のすべてを負債と化してきた。いま、われわれが目にしている終末的な世界の様相、この社会の破滅的なすがたはその結果である。その最も醜悪にして極限的な姿こ­そ壊滅した福島第一原発であり、再稼働させられた大飯原発である。IMFは民衆が蜂起するエジプトでの開催をあきらめ、そのかわりにこの日本/東京を選んだ。原発という負­債をさらに増殖させることで自分たちが生きのびるために。

しかし放射能がまきちらかされながら、それを直視することもできぬまま、植民地主義的妄想にとりつかれた、この恥辱にみちた国はIMFの墓場にこそふさわしく、ファシスト­を首長とするこの首都はその棺桶にふさわしい。原発と領土は今日のファシストのふたつの顔だ。かれらの崩壊は内戦とともにはじまるだろう。現在の破局的な世界はその過程の­開始を告げている。10月の東京はIMFを新たな破局——これはわれわれ自身に他ならない——によって歓迎するだろう。

すでにあらゆるところからIMFを頂点とする世界金融システムへ反攻の烽火はあげられている。われわれは世界の夜を走り抜け、ストライキをまきちらすだろう。

そして2012年10月の東京は、福島以降の日本と世界の長期にわたる崩壊/再編過程の一つの節目となるだろう。

外のひだ

反社会のひだを社会の名で呼ぶのは社会学の詐術である。
ソーシャルセンターだとか。「社会をたがやす」だとか。
反社会的なものは外へと向かう。外へとはじき飛ばされる。
ひとは外を生きるほかはない。でもひだがなければ生きられない。

そう、ひとはひだに住まう。書物、都市、記憶、音楽。
いかに外のひだをおりたたむか。そこに一時的に住まうために。

フランス19世紀世紀末。
パリ・コミューンは輝かしい過去でしかなかった。
いまや左翼も芸術家も外にはじき出されてしまっている。
出来事はもはや受肉せず、理念だけが浮遊しはじめる。
この稀薄な空気を、外そのものを「いかにして生きるか」。
かくしてサンボリスムやデカダンスが出てくる。
外を生きるためのひだ作りそれ自体を芸術と見なすことによって。

書物のひだ(マラルメ)
雑誌のひだ(サンボリスト)
神秘のひだ(ユイスマンス)
神話のひだ(モロー)
色彩のひだ(点描主義)
都市のひだ、記憶のひだ(カフェ「シャ・ノワール」)
脳のひだ(ベルクソン)

こうしたなかから世紀末アナキズムの実践も出てくる。
言葉と物の無関係それ自体を関係として把持しつつ。
外をおりたたむこと。それは内向ではない。
界や内面への内向に回収されないためにこそ、
外のひだが必要なのである。


2012年10月10日水曜日

顔のないサンディカリスム

サンディカの人称か、民衆の非人称か。
しばしばこうしたアルタナティブが語られる。
しかも、後者のほうが優位であるかのように。
だが、ここには嘘がある。

考えてみよう。
汚染食品の流通も、汚染地帯の学校や大学の運営も、
サンディカが現場をサボタージュすれば生じなかった。
社長や学長の指令を退けることができるのはサンディカ本来の力能である。
もちろん、サンディカリストたちはこのことを意識していた。
意識してなおかつ非力だから夜に「みんな」になる。

そして意識をこじらせる。まるで、
「みんな」の非人称がサンディカリスムの人称性よりも優位であるかのように。
ゼッケン左翼を小馬鹿にしつつ。
ノボリを立てないことがさも重要なことであるかのように。

だが、非力の別名であるような「みんな」などいらない。
そして「みんな」のなかで出くわすのはいまだに顔、顔、顔の人称性である。

サンディカリスムか、みんなか、どちらかを選ぶ必要はない。

顔のないサンディカリスムがある。
それはシンジケートという別名をもつ。
シンジケートは力能の夜の共産化である。
国家や社会に要求するかわりに闇の共産主義となる。
国家資本主義とは別のフローを組織するのである。

労働者によるぶんどり共産主義。
資本を共産化し、ひととものの別の流れをひそかに組織すること。
サンディカリスムはシンジケート主義として生まれ変わる。
共産化すべきは知性だけでもベクレル数値だけでもない。

労働者諸氏にはやってもらわなければならないことがたくさんある。

2012年10月6日土曜日

2012年10月3日水曜日

ファック・ユー

言葉と物はちがう。それらは無関係である。
大学院生なら壊れた機械のように誰もがそう言うだろう。
そこから文芸共和国まではあと一歩である。
すべてはフィクションである。
あらゆるフィクションのフィクションである文学こそ統治するのだと。

しかしフィクションはまず面白くなければならない。
ならば面白いことを言える頭脳と感性があればそれでよいか。
否。面白いことを言うだけの人間は最終的に面白くない。
なぜならその人間は面白いことを言うだけのクソ野郎だからである。
面白いフィクションの底には物がなければならない。

言葉と物はもちろんちがう。別物である。
しかし/そして、フィクションを発動させるのは、
言葉と物の関係を無関係という関係として保持する緊張度である。

たとえばわたしはブランショが好きだ。言葉がすべてである。
それとは無関係に、反ブランショ的に行動するということだ。

言葉だけのインチキ野郎ども。
おまえたちはまだまだインチキが足りないのだ。

2012年9月29日土曜日

クラス・ウォー

最新の調査によれば、現在アメリカ合衆国ではおよそ5世帯のうち1世帯が学生ローンの返済義務をかかえる。1989年からは2倍、2007年からは15パーセントの急増だという。人口の20パーセントをしめる最貧層にとって、学費はいまや収入の4分の1に相当する。

アメリカ学生は、虎視眈々と戦争開始の機会をうかがっている。彼ら彼女らの覚醒は明らかである。「これは階級戦争である」と。間違ってはならないが、学費問題こそが階級戦争なのであり、それは階級戦争の部分的なあらわれなどではない。高等教育は万人のウェルフェアであり、自然権である。にもかかわらず、資本はそこに階級性をもちこむ。金持ちは親にカネをもらえばよろしい。貧乏人は大学に通いたかったらカネを借りろ、働いてあとで返せ、という。だから階級戦争なのである。ケベックの学生による夜のストライキは学費値上げをみごとに阻止することができた。それがアメリカの若者を後押ししする。「でも、どうすれば学費装置を破壊できるのか?」 非人称の共謀と戦術の闇がうごめきだしている。共鳴とイニシアティブを。


2012年9月27日木曜日

スポーティ



昨日より始まったマドリッドでのオキュパイ・コングレス。
ライオット・ポリスの横暴が炸裂した模様である。
地下鉄のホームにまで追いかけてくる!
スポーティだ。

危機の名においてコモンを帝国資本に売り払う。
これは新自由主義の常套手段であり、もう誰にも通用しない嘘である。

「経済危機だからシートベルトを締めてくれ」
「ふざけるなファック・ファック・ユー!」

ところで日本。
あれほどやかましかった経済危機の恫喝がなりをひそめている。
なぜだろう? 日本は新自由主義の悪夢をくぐりぬけたのだろうか?
否。きっと経済危機という悪ふざけすらもはや言えない状態なのである。

アポカリプスとかそういうことではない。
原発事故の対応がそうであるように、
否認に否認をぬりかさねたすえに
みっともなく日本国家資本主義は終わるのだろう。


2012年9月24日月曜日

カネをオキュパイせよ


En direct de Mediapart : Toni Negri dans le... par Mediapart

『コモンウェルス』仏訳出版にさいしてなされたメディアパルトによるネグリへのインタヴュー。「重要なのは権力を取ることではありません。重要なのはエリゼ宮を取ることではなく、銀行を取ること、フランクフルトの銀行(欧州中央銀行)を奪取することなのです」(32:20~)。

ネグリは18世紀に遡及しつつ大革命の標語のかたわらに「ウェルフェア」の文字を書きくわえる。自由・平等・友愛・ウェルフェア。「絆」キャンペーンや「食べて応援」キャンペーンのもとでわれわれは卑屈になる必要はない。ウェルフェアという自然権を行使すればよいのである。どうすればよいか? ネグリ的直接民主主義のヴィジョンのなかで、ウェルフェア闘争は間接的な政治機関に向かうのではなく、直接的に銀行へと向かう。そう、被曝地帯で生きる自由を拒否し、皆で被曝する平等をしりぞけ、食べて応援させる友愛の強要をふりはらい、放射能のないウェルフェアを生きるためにはカネが必要である。自然権を行使する勇気を持とう。コモンウェルスへの直接行動を。カネをオキュパイせよ。


2012年9月20日木曜日

反借金、その戦術

インターネット上で「借金に抵抗する人のためのオペレーション・マニュアル」というパンフレットが出回っている。著者はOWSのアノニマス・コレクティヴだという。学生ローンで借金まみれの学生さん、未来を黒く塗りつぶされたポスト学生さん、要注目ですよ!  Occupy Wall Street/Strike Debt: The Debt Resistors' Operations Manual

2012年9月17日月曜日

ノー・アイディア


このうみきらい!
(3歳になったばかりの甥)

いったいいつまで頭のよい人たちの新たな意見に耳を傾ければよいのか。いったいいつまで優れた作家の新作を待ち望めばよいのか。いったいいつまで大好きな監督の新作を待ち構えればよいのか。いったいいつまで新製品を製造し流通させ販売しお給料を貰い生活を整え続ければよいのか。いったいいつまで...
どんなに精緻で優れた現状分析もどんなに身震いする素晴らしい作品もわたしたちの内部被曝の進行を止められやしない。当たり前だと言われれば当たり前。甘えるにもほどがある。けれども今回ばかりは日々生まれる「新製品」を止めてもよいのではないか。数多の「新製品」を弄ぶことでこの生活を成り立たせ果ては日々の被爆を継続させることになんら歯止めをかけることができていないのならば。「新製品」を止めるとは具体的にどうするのか。そんなことこちらに聞いて貰っても困る。よいアイディアなんてあるわけない。わたしたちはこれまでもノー・アイディアだったしこれからもノー・アイディアだ。次の段取りを想像することすら疎ましい。考えられない。頭わるいし。
「モン・パリ」(ジャック・ドゥミ)である日突然つわりに似た症状を訴えるマルチェロ・マストロヤンニは男性の妊娠について研究している産婦人科医に妊娠4ヶ月と診断される。ついに男性が妊娠したという噂は学会発表から新聞、テレビとまたたくまに広まりパリのあちらこちら、そして世界中の男性にもつわりの症状が現れ始める。臨月を迎えるころマストロヤンニの妊娠はまったく気のせいでお腹の膨らみは脂肪だったことが判明する。それでもこの冗談みたいな「男性が妊娠した」という噂を聞いたフランス中、世界中の男性が「つわり」を感じ始めるエピソードこそこの映画の肝ではないか。
放射能まみれの終わらないこの生活を終わらせた後はどんな生活になるのかはさっぱり思い浮かばないし生活しなければならないのかも知らない。それでも新しい巧緻で精確なひとの意見の生産を続けていてもどんどんぶらぶら病の症状が悪化するだけさ。せめてマストロヤンニの妊娠みたいにたった一度の荒唐無稽のでっち上げで世界中に「おしるし」が現れる。そんな批判でも分析でも創造でもないパッションをつわりとして拡げることはできないのかしら。できないな。もうよくわからないよ。


2012年9月15日土曜日

欲動の政治

マルチチュードは欲動を生きる。ところが左翼には根強い欲動嫌悪がある。左翼によれば、欲動とはなにより反知的であり、盲目的であり、ポピュリズム的である。したがってたとえばフランスのル・ペン家族、イタリアのベルルスコーニ、オーストリアのハイダー、スイスのブロハー、アメリカのティー・パーティ、オランダのワイルダー、フランドルのフラームス・ブロック、そして日本の石原や橋下といった極右政治装置は、欲動につらぬかれたコントロール不可能なマルチチュードが作動させているということになる。左翼にとってポピュリズムはあくまで軽蔑の対象なのであり、ポピュリズムを稼働させる「象徴的貧困」は頭のいい文芸共和国によって治癒すべき対象なのである。

だが、われわれは理性の黄金時代を生きているのではない。スピノザの時代から、政治の賭け金とは「欲動の政治」(シトン)であった。それゆえスピノザは「情動」から思考したのである。スピノザの究極の指令語はこうだった。「悲しみの数よりも喜びの数を多くかきあつめよ」。重要なのは、この無敵の欲動政治の核心には「圧力の政治」(シトン)が存するということである。スピノザが言いたいのは、悲しみよりも喜びのほうがテンションが高い、ということなのだ。つまりはどういうことか? 左翼はテンションで勝負せよ、ということなのだ。エジプト蜂起を想い起そう。そこで露呈したように、統治システムがどれほど静的に構造化されているように見えたとしても、じっさいはそれは準安定状態のまま打ち震えているプラトーである。タハリール広場で緊張感が圧倒的な高まりをみせたとき、従来のシステムはメルトダウンに達した。そのとき「堪えがたいもの」は分子となってエジプトの大気中を舞いはじめたのである。「堪えがたいもの」は民衆にもムバラクにも同じように知覚されたはずだ。こうしたテンションの高まりによるプラトー状態=メルトダウンの持続こそが21世紀の(反=)政治のエチカなのであり、ムバラク退陣といった革命的「出来事」はたんなる事後的な指標にすぎない。

右翼は自己や他者の悲しみを糧にして生きる以上、テンションはひくい。だが、そうした右翼の欲動政治にたいして、理知の高みから軽蔑するという左翼のポーズは過去のものである。左翼もまたみずからの欲動政治を創出しなければならない。なぜなら左翼の使命はなによりもテンションを高めることにあるからであり、テンションにおいて右翼を凌駕し、システムをメルトダウンさせ、堪えがたいものの分子を飛散させ、そのフォールアウトを知覚させることにあるからである。ティクーンはそうした欲動政治に「蜂起」の名をさずけた。レジームチェンジは何度でも到来するだろうし、出来事は幾度となく生起するだろう。だから、わざわざ出来事の政治をもちだすことは不要である。「ファック・ザ・ポリス!」を壁にスプレーする若者が生きているもの、それが左翼の欲動である。放射能だけが堪えがたいのではない。すべてが堪えがたい。文芸共和国をけちらせ。カオスモーズを。

2012年9月12日水曜日

オキュパイ一周年によせて



じつは原発を止めるのは簡単である。
現場の人間が停止動作を行えばよいだけだからだ。
国家政治の判断など俟たなくてもよい。
たとえば、官邸前の20万人が大飯原発のエンジニアたちに会いに行ってこう言う。

「原発を止めてくれ。」
「あなたたちの身の安全はわれわれが絶対に守る。」

装置にはそれを操作するエンジニアがかならずいる。
そのエンジニアに装置停止の決断をしてもらえばいい。
ウンコみたいなメタ=アイヒマン(官邸)に原発停止をお願いするよりも、
アイヒマンに直接お願いしたほうが話ははやい。

「やつらの世界をブロックせよ、
われわれの世界をときはなち、やつらにけしかけよ。」
オキュパイのあるバナーはこう告げる。
じっさい、われわれの世界はつながれた犬のようである。
くさりは政治である。

政治を切断せよ。
反=政治の犬をときはなて。
政治の名のもとに、いつまでわれわれは無力を装わねばならないのか。
社会の名のもとに、いつまでわれわれはかしこいふりをし続けるのか。

われわれの実力をときはなて。


2012年9月7日金曜日

被曝せよ!労働せよ!借金せよ!

10月にIMF年次総会がチャポンでひらかれるという。
奴らのメッセージはこうだ。被曝せよ、労働せよ、借金せよ。
さまざまな流儀で無数のファック・ユー!を叩きつけるべきである。


佐々木滋子というマラルメ学者によれば、
アナキストは文芸共和国の住人ではないという。
書物主義を標榜しつつ、アナキストの「みぶり」は書物から排除する。
フェネオンもマラルメも舐められたものだ。世の中にはとんだ共和国があるものだ。

「みぶり」があらゆる蜂起のデュナミスである。
警察に追跡され変電所に逃げ込んで感電死した少年たち。
路上で果物や野菜を売ろうとして警察に品物を没収され、焼身自殺をはかった青年。
こうした「みぶり」は語られ、多少なりとも文脈から切り離されてイマージュにおさめられる。
それはモノ化される。だが同時にそれはデュナミスをはこぶ。共鳴をよぶ。

わたしが演奏しているのではない。楽器がわたしを演奏しているのである。
ミュージシャンならば誰しもそうしたランボー的瞬間を経験したことがあるはずだ。
思うに、デュナミスそのものであるような「みぶり」はそうした瞬間に生じている。
そのとき、歴史の墓場である「作品」はこなごなに砕け散り、 イリュミナシオンの即興がはじまる。
だから、さらなる圧力をくわえよ、重力をくわえよ、関東に重いむら雲を生じさせよ。
関東圏というメトロポリスはいまや圧力鍋のようである。
文芸共和国というココットはいまにもメルトダウンしそうだ。

「移住したい、だが何処へ?」
「被曝したくない、だが金がない」
「文学部の教授が文学がすべてだと言う」
「書物がすべてというのなら書物をおれに買ってよこせ」
「シングルイシューというよりすべてが敵なんですけど」
「院生相手の現代思想屋がもっともらしいことを言っています」
「歴史に残りますか。あーそーですか」

ハムレットたちの独白はみぶりのデュナミスへと転化するだろうか。
ハムレットたちのふるさとは文芸共和国ではない。カオスモーズである。
そう、覚悟がすべてだ。発火点をさがせ。

2012年9月3日月曜日

知識人の誕生



50分から質問をくりだす男性。
われわれは知識人の誕生に立ち会っている。その雄姿を見よ。

2012年9月1日土曜日

権力をおれにくれ

権力をおれにくれ
絶大なる権力をおれに
そうすれば日本を南仏にしてやる
おまえらがあまり働かなくてもいいようにしてやる

ニース…
マントン…
カンヌ…
そしてモナコ…!

社会問題は夏休みの宿題のようだ
日々のニュースを見るがいい 日々のつぶやきを見るがいい
社会に目を向けよという 他者に目を向けよという
それは優等生たちの発言である
手ぶらのまま気まずい始業式をむかえるわたしたちは言う
(「先生、エートスはいらないとおもいます」)
(「先生、移住は宿題に答えたことにはなりませんか」)
優等生たちよ 原発をあと一週間で止めてくれ
反原発運動をこれ以上長引かせないでくれ
大人のヒロイズムもここまで続けば鼻白むというもの
毎週金曜日? 毎日やれ! 24時間やれ!
なぜなら わたしたちはいますぐ南仏計画をおしすすめたいのだ!

南仏! 南仏! 
恋人たちの南仏!
劣等生たちの南仏!

でもね 放射能がばらまかれたから南仏化は無理だね
月光の浜辺で恋人たちが秘密の寿司をつまむ
そんなビーチ寿司はもう無理なのだ
おお! 労働と放射能!
終わらない被曝社会運動!
われらが暗黒の未来よ!

にゆあんす。

ラモーンズは、イギリス人を、カラッと、殺しにいくような音楽をやったんじゃないだろうか。
じめっと、復讐みたいな音、ラモーンズ、してないsi。
そこに、初期パンと他人に名付けられた難民のひとが沢山いて、ラッとした殺しが染みて、なんか、もりあがっちったんじゃないだろうか。

2012年8月20日月曜日

首都政治

反原発を唱和し、都におけるガレキ焼却はスルーする。
これが都民の「知性」であり、都民による首都政治である。
北九州市や大阪市をはじめとするガレキ焼却反対の白熱を想起しよう。
都民の態度は何かをなめている。何かをばかにしている。
旧来の現代思想は「革命せよ、蜂起せよ、暴動せよ」という。
だが、東京でいかなる出来事が生じようとも、それは再領土化にすぎない。
恥というのか。屈辱というのか。それは都民を外からながめるわれわれのセリフである。
被曝を拒否するという革命以外に、蜂起以外に、暴動以外に、
革命も蜂起も暴動もない。
ひとは「大人として」「子供のために」と主張するだろう。
ちょっとまってくれ。そのおまえが大人を僭称するのか?

おまえは大人でも子供でもない、ただの装置ではないか……?

被曝が戦争への加担である。
反被曝の徹底が反戦争であり、反原発である。
それをスルーしておいて、何が革命か、蜂起か、暴動か。
ガレキ焼却ぐらい止められずに何が反原発か。
おまえのいう「子供」が聞いてあきれるぜ。
きみたちにマスクは不要のようだ。
都民の知性に乾杯。

2012年8月13日月曜日

あの中間管理職が主催者なのか?

首相官邸前デモの主催者がウザいといっているやつをよくみるが、主催者かどうかはしらないけど、官邸前にウザい連中は、ま、いた
そいつは、なぜか交差点で交通整理をしていたり、なぜかデモのくせにオレを歩道に押し込めたり、なぜか歩道に通路をこしらえて、通路は止まらないでくれ、だってそれって社会のマナーだろ?マナーはまもろうぜ!みたいなノリの不思議なオーラ出してるやつ。。で、反原発!とかいうの。
ま、オレが、あいつらがウザいのは、放射能まみれの被爆地帯で、Let’s  安心・安全街づくり条例だよ!なのがウザい。
つまり、なんだ?
東京ローカルの条例みたいな発想で、とりあえず原発が止まれば、被爆社会でもなんとかやっていけるよねッ!みたいなとこ。
みんなでマナー(不思議!)をまもって原発を止めてもらえるように〜、反原発!ぼくらのこと、正しいって思ってもらえるように〜、反原発!みたいな、、、ま、おめでたいところ。
ま、手当がない中間管理職(平)みたいなこと率先してやってるみたいにみえるけど、小学校いってたときにも、一人ぐらいいただろ?そういう学級委員みたいなやつ。
サブくね?
被爆社会だっつーの。どろっ泥の!
で、主催者がウザいといっているやつは、主催者が反原発運動に電波はいらないといったり、反放射能を疎外していたり、そういう主催者がわれわれは99.9パーセントだなどと言ったりしている(らしい)ことを指して、ウザいといっているみたいだけど、オレがウザいと思ってるあのアホ中間管理職(ま、0.01パーセントぐらい?)のやつが、反放射能のオレの代表です!なんていってんだとしたら、オレは聞いたことがないから、もし、そんなことだったら、オレ、チョーびっくり、チョーめいわくなんですけど‼で、オレがウザいあの中間管理職が主催者なのかしら?だとしたら、数え方まちがってんじゃね?

2012年8月11日土曜日

teengenerate以降のバンドについて

teengenerate以降のパンクバンドについて

前回の記事では、やたら固有名詞を連呼しているだけのようで反省。
さて、teengenerate以降のバンド、ということだが、どうも最近酒の飲み過ぎ(もともと弱い)で、脳みそが小さくなって色々だめなのでなんとかまだ思い出せるうちに。
teengenerateは後追いなので、たまにイヴェントとかで演る再結成のときしか見たことがない。しかしユーチューブやライブ盤で聴けるそれは、いつ聴いても衝撃(shock!!)以外のなにものでもなく、それはまあ、すごい。しっかりとしたパンク、ガレージパンクがとにかく矢継ぎ早に、めちゃくちゃテンポ早く演奏される様は圧巻。すごすぎる。バケモノだ。teengenerateの持っていた、熱、が、その後のバンド達に受け継がれていったと思う。teengenerateは7inch出しまくって、95年年末?にあっさり解散。その活動に前後して出てくるregistratorsは、極初期の、bumにも通じるpop punk〜メロディック(set me freeはスナッフィースマイルから!)、1stアルバムのキラーパンク(アメリカのリップオフスとも共通する流れ)、2ndのパワーポップの感覚とハードパンク、3rdからはパンクロックを進化させたようなギターロックをやりつつ、レコーディングの概念をあっさり塗り替えるような音源を連発。ことばにしてみると安っぽいけど、これは書いてる文章がだめなだけで、ほんとうにregistratorsはすごい。brightlinerを経て今はsmallspeakerですが、なんにもブレてない。ぜんぶ正しい。奇跡みたいな音楽です。そのregistratorsが始めたライブの企画でクロロフォルムというのがあって、やはり後追いなんだけど、それに関わったバンドや関係者の証言を読むと、やはり尋常ではない、熱、が発生していたようだ。西暦2000年頃にようやくそれを体感するのだが、やはり、熱以外のなにものでもない。ad viceというコンピがそれをあらわしている。
それに参加しているバンドは5つ。
Firestarterは元teengenerateのバンドで、よりパワーポップやソリッドなパンクロックで、普遍です。最初みたときとにかくおっそろしくて、ひとのひとりやふたり普通に殺してると思った。怖かった。
インティメイトファグスはアメリカンな感じもある、ねじれた感じのパンクバンドで、そこまで熱心においかけていたわけではないが、ああいう感覚は重要だなと思う。今は活動停止中。
レディオシャンハイは、すごく自由な感じで、乱暴に言うと、ニューウェーブでダンサンブルなんだけど、ヴォーカルのムキムキ(ムチムチ?)で体毛やたら濃いひとがポリスみたいな格好で登場したり、ああ、なんでもありなんだなっていうか、感情にうそついちゃいけないんだなって思わされた。ライブはとにかく楽しくて見てて目が奪われた。ベースの女のひとがすごくきれいだった。
そしてzymotics!!!!!!!ユーチューブとかで検索してみてよ!ad viceではパンクロックそのものですごくいいんだけど、しばらくしてゴシック?みたいな感じになって、今どうなってるんだろう?天才というか変態というか、とんでもない。
もうボキャブラリーも底をついてきた。最後、private ways.プログレッシヴ?やたら展開の多い曲構成と、しっかりした演奏。もうかたっくるしい感じにしかならない感じなのに、スカスカなパンク、今書いててわかったけど、スカスカなパンクって、空間っていうか、立体的な感じなんだな。立体的な音楽。字面にするととてつもなくダサいけど。

teengenerate以降のバンドについて


パンクロックミュージックについて

    パンクロックミュージックについて

    パンクロックミュージックについて考察したい。考え方とか、生き方(笑)におけるパンクではなく、あくまで音楽としてのパンクロックミュージックについて。

    始祖としてはまずラモーンズが挙げられるだろう。ラモーンズ周辺のニューヨークパンクについて、パンクと言い切ってしまうのはやや乱暴に感じる。確かに、テレヴィジョンをパンクと捉えるのは大変けっこうですが、そういった行為が、パンクロックミュージックについてややこしくしている。パンクということばを便利にしてしまっている。それこそ津軽じゃみせんもパンク、みたいな。テレヴィジョン(津軽)が嫌いなわけではないが、テレヴィジョンはパンクロックミュージックではないと定義しておく。
    ラモーンズについても、かなりロックンロールの影響が色濃く、パンクロックミュージックとするにはやや違う向きもあるが、デモ音源などで聴ける極初期のものは、紛れもないパンクロックミュージックだ(技術的にコピーできる曲がないから仕方なく自分たちで2コードの曲をつくったetc)。ロケットtoロシアに入っているI don't careのデモヴァージョンなどがそうだ。
    ニューヨーク周辺ではあとはリチャードヘルも近いものがある。それ以外は、テレヴィジョンやパティスミスのようなアート?な方向と、ディクテイターズなどのロックンロールの方向(後のパワーポップ)が多いように思う。

    さて、イギリスではやはりセックスピストルズがあるが、セックスピストルズの音楽性についても、ラモーンズからの影響か、ロックンロールの要素を強く感じる。どっちかというと、ダムドの初期のあたりがパンクっぽいと思う。
    何が言いたいのかと言うと、イーターが、パンクロックミュージックそのものではないか?と思うのである。チャリチャリなギターにやたら高音のベース、理想的なヴォーカル、ドラムはよくわかんないけど、14歳とかなんでしょ?蟻のジャケが有名な1stアルバムは、紛れもないパンクロックミュージックそのものである。
    あとはcortinasとかspitfire boysあたりが純パンクロックと言えるのではないだろうか?別に細かく定義したからどうだっていうわけでもないが、なにかパンクということばを都合よく使うのもなんだかな、と思ったので、少しはっきりしておこうと思っただけである。
    4大パンクバンド?では、ジャムはモッドというには1stなんかはパンク過ぎるし、2nd(最高傑作)や3rdは個人的にギターポップと思う。なんかポールウェラーって、最初曲の作り方がぎこちなくって、あんまり自然に聞こえないんだけどそこが良いのだが段々こなれてくるのが残念。別にいいんだけど。
    ストラングラーズもパンクかというとちょっとだいぶ違う感じ。好きだけど。ゴリゴリとしたベースが格好良い。有名なマイナーなところでは、やはりユーザーズやキルジョイズはパンク!このあたりは発掘したひとがいて知られるようになったので、訳知り顔で語るのもおこがましいところもある(先に挙げたコーティナスなどは勿論)。ユーザーズは1st2nd7inchは完璧なパンクロックで、胡散臭いところも完璧だ。そういった意味では何年か前に出た発掘音源は正直がっかりした。メンバーの写真とかもちゃんと出ててたけど、見なきゃよかった。キルジョイズもやっぱり完璧で、いかがわしさって重要だなと思う。
    あとはワイヤーもすごいいいんだけど、最初の妙な宣言はいらなかったんじゃないかと思う。すごい考えてやってるの?と思ってしまう。
    Generation Xは大好きだが(ベスト盤しか持ってないが...)、パンクロックとは違う気がする。正しい歌謡曲、初期の松田聖子のようなものだ。キラキラした感じは憧れる。ギターのひとになりたい。
    バズコックスは...なんというか、全て。
    また、killed by deathについても色々あるし、teengenerate以降のニホンのパンクバンド達についても考察する必要があるだろう。それはまた別の機会に書かせていただきたいと思います。
    何度も書きますが、別に俺はパンクのなんたるかを知ってるぜ!と悦に入りたいわけでもないし(悦に入っても別にいいけど)、俺のパンク観、お前のパンク観が知りたいわけでもありません。パンクだから好きとかそういうんじゃないし、とりあえずイーターとGeneration Xの素晴らしさを伝えたかっただけです。ベスト盤しか持ってませんが...みんな死ね

2012年8月7日火曜日

サンディカとシンジケート

フリッツ・ラングの『M』(1932年)。学生の時分にはじめて見たが、よく分からなかった。「サイコ・スリラーの始祖? ふーん…」という、ただぼんやりとした印象だけが残った。シネフィルになりたいシネフィル、シネフィル予備軍、シネフィル・ワナビー。つまりは真正のシネフィルだったのである。だから十数年後の現在また『M』を見なおしてみて、あまりにも面白いので驚愕してしまった。『ドクトル・マブゼ』(1922年)や『ドクトル・マブゼの遺言』(1933年)と合わせて自分なりの感想をまとめておこう。

フリッツ・ラングの『M』は、世界恐慌を背景としたポスト=アナルコ・サンジカリスムという歴史的地平に置かれている。恐慌のもとではもはや旧来からのサンディカは機能しない。なぜなら工場自体が倒産してしまったからである。にもかかわらず、左翼政党はあいかわらず党派政治にあけくれるだろう。だからこれ以上「左翼に武器をあずけ」てもしょうがない。だから失業者たちはサンディカではなくシンジケートへと向かう。人々は社会であることをみずから放棄し、暗黒街として自己組織化するのである。

サンディカとシンジケート。フリッツ・ラングは両者のあいだのゆらぎをわれわれに見せる。暗黒街の自己組織化はある部分ではいまだにサンディカ的である。なぜならその母体は倒産した蒸留工場のサンディカであっただろうから。だがその自己組織化はもうストライキを戦術としてパトロンや国家に要求をつきつける労働者のそれではない。人々は要求するかわりに、街区を単位とした闇経済を組織する。国民や市民として団結するかわりに、国家や社会をひそかに出しぬく。「ゼネラル」ストライキに立ち上がるかわりに、決然と分離主義を志向する。こうしたサンディカからシンジケートへの転導において鮮明になるもの、それは社会動員の解除、反社会的なものの漏出、すなわち社会戦争にほかならない。

サンディカ=シンジケートは共同体ではなく共謀体である。制度ではなく、みぶりとみぶりの共鳴である。共謀体がうまくいくかどうかは指令語やヒエラルキーとは関係がない。その理由は、共謀体が国家でも社会でも運動でもないからという以上に、共謀体の命運を決するものが賭けの領分にあるからである。人々の個々のみぶりがそれぞれ賭博者のイニシアティブを帯びるとき、共謀体は運命とたわむれる遊動そのものとなる。国家に住まう国民や社会に住まう市民が見たこともない白熱そのものとなる。くりかえすが、それはうまくいくこともうまくいかないこともある。むろんそうした賭けの勝利と敗北がよろこびなのである。おびえたみぶりや疑心暗鬼は共謀体をむしろ解体へとみちびくだろう。にもかかわらず、ラングのしめすサンディカ=シンジケートはつねにそうした危機と背中合わせである。

じっさい『M』におけるサンディカ=シンジケートは両義的である。国家警察を出しぬいて殺人犯を独自にとらえ、人民裁判にかけたとしても、その裁判はあたかも国家裁判を反復するかのようである。そしてそのサンディカ=シンジケート自体もまた最終的に国家警察につきとめられ、解体をせまられるだろう。他方でフリッツ・ラングが『ドクトル・マブゼ』や『遺言』においてわれわれに物語るように、共謀体という賭けはつねにペテンの危険にさらされている。じじつドクトル・マブゼは賭博者をよそおったペテン師として登場するのであり、彼はすべてが賭けだとうそぶきながらペテンによって賭場=共謀体を横領してしまおうとするだろう。権力への意志はペテンによる賭けの支配としてあらわれるのである。あるいはこのマブゼについてベルナール・アスプとともにこう言おう。すなわち、すべてが賭けとなってしまうならば、われわれはもはや賭けを「始める」ことができなくなる。すべてが戦争となってしまうならば、もはや戦争を始めることができなくなるように。いずれにせよ、そうしたマブゼの存在によって共謀体は内部から崩壊し、「指令語のアレンジメント」(ドゥルーズ&ガタリ)にすぎないものとなる。それはすでにファシズムそのものの姿である。

国家や社会が無能をさらけだした放射能を食えという「メトロポリス」で、われわれはフリッツ・ラングを反復しつつある。放射能が飛来してもストライキひとつ起こせないような社畜しかいない社会において、われわれはゼネスト神話が最後の賭け金であるようなアナルコ・サンジカリスムをこえて自己組織化しつつある。放射能の流通が大手をふるった経済ならば、反放射能の共謀は闇経済である。絆など犬にでも食われてしまえ。出しぬけ、分離独立せよ、シンジケートせよ。指令語を裏切れ、国家にも社会にもなるな。ペテンを追放せよ、ファシストを追放せよ、シネフィルを追放せよ、映画をシネフィルから解放せよ。そしてさらなる賭けを、賭けの再開を、賭けのみぶりを、共謀の白熱を。


2012年7月28日土曜日

公害戦争



砂田明による詩「起ちなはれ」全文はここを参照。

公害。 権力とわれわれの生がぶつかるその結節を公害と呼ぼう。
ある日ある場所で知らぬ間に権力の毒と出会う。毒は資本主義の身体である。
ある日ある場所でたまたま王の身体にふれ、処刑された「汚名に塗れた人々」のように、
われわれは理由なきまま資本主義の身体にふれ、生を短命化させられる。生を絶たれる。

生が権力と出会うのはもはや工場や管理社会のみではない。
生の権力にたいする闘争は「公害戦争」(砂田明)として決定的なかたちをなす。

公害戦争の後方に守るべき生がひかえているのではない。
公害戦争こそがわれわれの生の形式であり、生のシンジケートである。
われわれ人間=反資本主義者の「さいごの戦争」である。


2012年7月25日水曜日

自分の老いを老いよ



「そのフィルムのシークェンス全体が反復として開くものを不思議な温泉のようなものとして想像してもよいでしょうか、そのお湯の中では誰も彼もが「生き返る」のですが、その条件として、そこには如何なる未来も許されておらず、如何なる未来も夢想においてすら練られることがない、そんな温泉を。」(シェフェール)

よりよい会社などないようによりよい社会などないことがはっきりしたが会社だ社会だの前に被曝に怯える日々。細心の注意を払おうが多かれ少なかれ内部被曝は続いてゆく。ムスメの保育園では水筒持参はムスメたったひとり。他の子たちは水道水をがぶがぶ飲み、牛乳もしいたけももりもり摂取。
これから数年後あらわれる晩発性障害は死ぬほど痛かったりそのまま死んでしまったりするのか。
被曝することは「老化を早める」ということらしい。被曝しながら被曝のことを考えることほどばからしいこともないが、われわれが毎時毎日翻弄され続けている「被曝イメージ」のすぐ隣には「老後に対する不安」がしれっと張り付いている。思えば日々の糧を得るためと称して愚かにも一日の多くを占める社畜時間には「明日は老後」とでもいえそうな直近の未来への不安が漲っている。いってみれば社畜時間は老後のための時間の謂いなのだ。もちろん「老後」なんてものはアカルイ未来や素敵な社会やいい会社と同じくらいマヤカシに過ぎないのも重々承知の上でこの「老後」と執拗に付き合わされている。フクシマで原発が爆発する。社畜時間は放射能塗れになる。ここに「被曝と老後」という極悪同盟が誕生する。
被曝することは「老化を早める」ということらしいが、ただでさえ老後に怯える社畜時間は不安の対象となる未来が益々現在に近くなり時々刻々と老後に怯えるような感覚をもたらし始める。この極悪同盟によって社畜は目の前の老後に怯えつつ今現在の内部被曝への恐怖に完璧に押しつぶされ放射能による死因で死ぬ前に死んだも同然になる。
被曝しながら被曝のことを考えるバカバカしさも毎日続けていればホントのバカになるもの。死んだも同然の社畜時間に隙き間を作って子育てしていると気づく。子供こそがものすごいスピードで老いている。大人になるにつれそのスピードは遅くなり、老人はほとんど「老いていない」。「老い」は老人のものでない。「老い」は老後に関係ない。毎行改行する散文のリズムのようにただひたすら世界にたいしていちいち出会い直す子供の時間こそが老いなのだ。
であるとするならば被曝が最終的には痛くて苦しい死まで追いつめてくる「老化を早める」という作用は「老いは子供のもの」というバカな親でも直感した事実を隠蔽するために強力にはたらき始めているように見える。
西暦もなんのその放射性核種の半減期がそのまま放射能歴とでもいえそうな暦を生き始めたわれわれはその途方もなく大きいカレンダーを眺めつつも一秒後の内部被曝に怯える生活を続けることになる。
それでも「子供の生」としての老いを再び生き直すことはできるのか。できないのか。そんなこと考えること自体結局バカのすることなのか。なにも分からない。ただ、30代から「おじいさん役」を演じた笠智衆はそのことを体現していたような気もするし、彼を使い続けた小津安二郎は子供が老いる時間を大人の役者を使って凝視していたような気もする。
自分の老いを老いよ。

2012年7月22日日曜日

お祭り

昨日も今日も、お祭りにいきました。とっても楽しかったです

2012年7月19日木曜日

反放射能じゃ

恋人とけんかしたんだ。もう、三日も口きいてくんない。 なんでって、アイツ、家事を全くといっていいぐらいやらないんだ。オレだって働いて22時とかに帰宅したら、飯なんかつくりたかねぇ。でも、福一が爆発してからなんでもかんでも食えるってわけじゃねぇーだろ。外食なんてあやしいったらねぇ(サイゼリアは大丈夫らしいから最近は少し楽だけど)。アイツは、料理が好きじゃないから、飯のことはオレがやったとしても、掃除、洗濯、公共?料金(もちろん滞納)、ゴミ出し、もろもろ、全く何もしねぇ。家に帰ってきたら、飯くって寝る。アイツときたら風呂にもはいらねぇ。で、洗濯物が生乾きで、ちょっと臭くなっちゃったりしたブラには香水を振りかけたりする。そういうとこには気をつかいやがるから、こっちはカチンとくるんだよな。それで、そういうもろもろのことを、まとめていってやったんだ。 「まるで、お前は月給20万の猫だ!」 それから、フン!ってなってこの様だ。月給20万の猫って、いま考えたら悪口でもなんでもないと思うんだけど、言い方がまずかったのか?ま、わからん。でも、いま思うのは、手伝ってもらわなくても、ま、いい。ただ、放射能のやつが、オレの仕事を増やしやがって、オレは、ムカついているってこと。 ハパックス? ああ、もちろんだとも。

2012年7月17日火曜日

ハパックスは世界に向かう

われわれはハパックスである。ハパックスは世界をめざす。ハパックスにとって世界とは、首都から海路や空路をつうじて開かれるのではない。そのような世界は、規律装置や管理装置によって強硬症をわずらったブルームどもの発想である。「大学生になれば」「大学院生になれば」「就職すれば」「海外に出れば」。あるいは「大学では」「大学院では」「アカデミズムでは」「社会では」「世界では」。われわれハパックスはそうしたブルーム的世界と手を切った。われわれは思う。共謀とはブルーム状態からの脱出口であると。共謀がはらまれるかぎり、そこはすでに原子力都市の終了地点であると。友人や恋人のまえでブルームであることをやめ、ハパックスになるとき、われわれは世界そのものにふれるのであると。
ブルームは啓蒙主義者をよそおい、われわれを恫喝する。「大人になれ」「子供状態から脱せよ」と。それは社会化を受け入れさせるための常套句にすぎない。大学院の研究室から革命的評議会にいたるまで、就職活動の現場であれ現代思想のシーンであれ、社会が猛威をふるう。だが汚染列島のみじめな現状をながめるかぎり、啓蒙主義の公式はむしろ「子供になれ」「馬鹿になれ」である。われわれの言葉でいえば「ハパックスになれ」である。頭がよさそうに見せることが大人であることの証明となるような国で、われわれはただ一度きりの生を子供として享楽しなければならない。世界のリズムをきざまなければならない。われわれは「未来のために」「子供のために」と唱和するだろう。だが、未来の他者はわれわれとは無関係である。なぜならわれわれこそが生であるがゆえに、われわれこそが未来であるがゆえに、われわれこそが反放射能を徹底的に生きなければならない。もういちど言う。汚染列島における啓蒙とは、大人のつとめとは、大人になることではない。書物になることではない。大学になることではない。会社になることではない。社会になることではない。懸命に子供になることである。装置を取りはずすことである。そして世界そのものを享受することである。世界へ。