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2012年10月13日土曜日

外のひだ

反社会のひだを社会の名で呼ぶのは社会学の詐術である。
ソーシャルセンターだとか。「社会をたがやす」だとか。
反社会的なものは外へと向かう。外へとはじき飛ばされる。
ひとは外を生きるほかはない。でもひだがなければ生きられない。

そう、ひとはひだに住まう。書物、都市、記憶、音楽。
いかに外のひだをおりたたむか。そこに一時的に住まうために。

フランス19世紀世紀末。
パリ・コミューンは輝かしい過去でしかなかった。
いまや左翼も芸術家も外にはじき出されてしまっている。
出来事はもはや受肉せず、理念だけが浮遊しはじめる。
この稀薄な空気を、外そのものを「いかにして生きるか」。
かくしてサンボリスムやデカダンスが出てくる。
外を生きるためのひだ作りそれ自体を芸術と見なすことによって。

書物のひだ(マラルメ)
雑誌のひだ(サンボリスト)
神秘のひだ(ユイスマンス)
神話のひだ(モロー)
色彩のひだ(点描主義)
都市のひだ、記憶のひだ(カフェ「シャ・ノワール」)
脳のひだ(ベルクソン)

こうしたなかから世紀末アナキズムの実践も出てくる。
言葉と物の無関係それ自体を関係として把持しつつ。
外をおりたたむこと。それは内向ではない。
界や内面への内向に回収されないためにこそ、
外のひだが必要なのである。


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