hapax

2012年7月28日土曜日

公害戦争



砂田明による詩「起ちなはれ」全文はここを参照。

公害。 権力とわれわれの生がぶつかるその結節を公害と呼ぼう。
ある日ある場所で知らぬ間に権力の毒と出会う。毒は資本主義の身体である。
ある日ある場所でたまたま王の身体にふれ、処刑された「汚名に塗れた人々」のように、
われわれは理由なきまま資本主義の身体にふれ、生を短命化させられる。生を絶たれる。

生が権力と出会うのはもはや工場や管理社会のみではない。
生の権力にたいする闘争は「公害戦争」(砂田明)として決定的なかたちをなす。

公害戦争の後方に守るべき生がひかえているのではない。
公害戦争こそがわれわれの生の形式であり、生のシンジケートである。
われわれ人間=反資本主義者の「さいごの戦争」である。


2012年7月25日水曜日

自分の老いを老いよ



「そのフィルムのシークェンス全体が反復として開くものを不思議な温泉のようなものとして想像してもよいでしょうか、そのお湯の中では誰も彼もが「生き返る」のですが、その条件として、そこには如何なる未来も許されておらず、如何なる未来も夢想においてすら練られることがない、そんな温泉を。」(シェフェール)

よりよい会社などないようによりよい社会などないことがはっきりしたが会社だ社会だの前に被曝に怯える日々。細心の注意を払おうが多かれ少なかれ内部被曝は続いてゆく。ムスメの保育園では水筒持参はムスメたったひとり。他の子たちは水道水をがぶがぶ飲み、牛乳もしいたけももりもり摂取。
これから数年後あらわれる晩発性障害は死ぬほど痛かったりそのまま死んでしまったりするのか。
被曝することは「老化を早める」ということらしい。被曝しながら被曝のことを考えることほどばからしいこともないが、われわれが毎時毎日翻弄され続けている「被曝イメージ」のすぐ隣には「老後に対する不安」がしれっと張り付いている。思えば日々の糧を得るためと称して愚かにも一日の多くを占める社畜時間には「明日は老後」とでもいえそうな直近の未来への不安が漲っている。いってみれば社畜時間は老後のための時間の謂いなのだ。もちろん「老後」なんてものはアカルイ未来や素敵な社会やいい会社と同じくらいマヤカシに過ぎないのも重々承知の上でこの「老後」と執拗に付き合わされている。フクシマで原発が爆発する。社畜時間は放射能塗れになる。ここに「被曝と老後」という極悪同盟が誕生する。
被曝することは「老化を早める」ということらしいが、ただでさえ老後に怯える社畜時間は不安の対象となる未来が益々現在に近くなり時々刻々と老後に怯えるような感覚をもたらし始める。この極悪同盟によって社畜は目の前の老後に怯えつつ今現在の内部被曝への恐怖に完璧に押しつぶされ放射能による死因で死ぬ前に死んだも同然になる。
被曝しながら被曝のことを考えるバカバカしさも毎日続けていればホントのバカになるもの。死んだも同然の社畜時間に隙き間を作って子育てしていると気づく。子供こそがものすごいスピードで老いている。大人になるにつれそのスピードは遅くなり、老人はほとんど「老いていない」。「老い」は老人のものでない。「老い」は老後に関係ない。毎行改行する散文のリズムのようにただひたすら世界にたいしていちいち出会い直す子供の時間こそが老いなのだ。
であるとするならば被曝が最終的には痛くて苦しい死まで追いつめてくる「老化を早める」という作用は「老いは子供のもの」というバカな親でも直感した事実を隠蔽するために強力にはたらき始めているように見える。
西暦もなんのその放射性核種の半減期がそのまま放射能歴とでもいえそうな暦を生き始めたわれわれはその途方もなく大きいカレンダーを眺めつつも一秒後の内部被曝に怯える生活を続けることになる。
それでも「子供の生」としての老いを再び生き直すことはできるのか。できないのか。そんなこと考えること自体結局バカのすることなのか。なにも分からない。ただ、30代から「おじいさん役」を演じた笠智衆はそのことを体現していたような気もするし、彼を使い続けた小津安二郎は子供が老いる時間を大人の役者を使って凝視していたような気もする。
自分の老いを老いよ。

2012年7月22日日曜日

お祭り

昨日も今日も、お祭りにいきました。とっても楽しかったです

2012年7月19日木曜日

反放射能じゃ

恋人とけんかしたんだ。もう、三日も口きいてくんない。 なんでって、アイツ、家事を全くといっていいぐらいやらないんだ。オレだって働いて22時とかに帰宅したら、飯なんかつくりたかねぇ。でも、福一が爆発してからなんでもかんでも食えるってわけじゃねぇーだろ。外食なんてあやしいったらねぇ(サイゼリアは大丈夫らしいから最近は少し楽だけど)。アイツは、料理が好きじゃないから、飯のことはオレがやったとしても、掃除、洗濯、公共?料金(もちろん滞納)、ゴミ出し、もろもろ、全く何もしねぇ。家に帰ってきたら、飯くって寝る。アイツときたら風呂にもはいらねぇ。で、洗濯物が生乾きで、ちょっと臭くなっちゃったりしたブラには香水を振りかけたりする。そういうとこには気をつかいやがるから、こっちはカチンとくるんだよな。それで、そういうもろもろのことを、まとめていってやったんだ。 「まるで、お前は月給20万の猫だ!」 それから、フン!ってなってこの様だ。月給20万の猫って、いま考えたら悪口でもなんでもないと思うんだけど、言い方がまずかったのか?ま、わからん。でも、いま思うのは、手伝ってもらわなくても、ま、いい。ただ、放射能のやつが、オレの仕事を増やしやがって、オレは、ムカついているってこと。 ハパックス? ああ、もちろんだとも。

2012年7月17日火曜日

ハパックスは世界に向かう

われわれはハパックスである。ハパックスは世界をめざす。ハパックスにとって世界とは、首都から海路や空路をつうじて開かれるのではない。そのような世界は、規律装置や管理装置によって強硬症をわずらったブルームどもの発想である。「大学生になれば」「大学院生になれば」「就職すれば」「海外に出れば」。あるいは「大学では」「大学院では」「アカデミズムでは」「社会では」「世界では」。われわれハパックスはそうしたブルーム的世界と手を切った。われわれは思う。共謀とはブルーム状態からの脱出口であると。共謀がはらまれるかぎり、そこはすでに原子力都市の終了地点であると。友人や恋人のまえでブルームであることをやめ、ハパックスになるとき、われわれは世界そのものにふれるのであると。
ブルームは啓蒙主義者をよそおい、われわれを恫喝する。「大人になれ」「子供状態から脱せよ」と。それは社会化を受け入れさせるための常套句にすぎない。大学院の研究室から革命的評議会にいたるまで、就職活動の現場であれ現代思想のシーンであれ、社会が猛威をふるう。だが汚染列島のみじめな現状をながめるかぎり、啓蒙主義の公式はむしろ「子供になれ」「馬鹿になれ」である。われわれの言葉でいえば「ハパックスになれ」である。頭がよさそうに見せることが大人であることの証明となるような国で、われわれはただ一度きりの生を子供として享楽しなければならない。世界のリズムをきざまなければならない。われわれは「未来のために」「子供のために」と唱和するだろう。だが、未来の他者はわれわれとは無関係である。なぜならわれわれこそが生であるがゆえに、われわれこそが未来であるがゆえに、われわれこそが反放射能を徹底的に生きなければならない。もういちど言う。汚染列島における啓蒙とは、大人のつとめとは、大人になることではない。書物になることではない。大学になることではない。会社になることではない。社会になることではない。懸命に子供になることである。装置を取りはずすことである。そして世界そのものを享受することである。世界へ。