hapax

2012年9月29日土曜日

クラス・ウォー

最新の調査によれば、現在アメリカ合衆国ではおよそ5世帯のうち1世帯が学生ローンの返済義務をかかえる。1989年からは2倍、2007年からは15パーセントの急増だという。人口の20パーセントをしめる最貧層にとって、学費はいまや収入の4分の1に相当する。

アメリカ学生は、虎視眈々と戦争開始の機会をうかがっている。彼ら彼女らの覚醒は明らかである。「これは階級戦争である」と。間違ってはならないが、学費問題こそが階級戦争なのであり、それは階級戦争の部分的なあらわれなどではない。高等教育は万人のウェルフェアであり、自然権である。にもかかわらず、資本はそこに階級性をもちこむ。金持ちは親にカネをもらえばよろしい。貧乏人は大学に通いたかったらカネを借りろ、働いてあとで返せ、という。だから階級戦争なのである。ケベックの学生による夜のストライキは学費値上げをみごとに阻止することができた。それがアメリカの若者を後押ししする。「でも、どうすれば学費装置を破壊できるのか?」 非人称の共謀と戦術の闇がうごめきだしている。共鳴とイニシアティブを。


2012年9月27日木曜日

スポーティ



昨日より始まったマドリッドでのオキュパイ・コングレス。
ライオット・ポリスの横暴が炸裂した模様である。
地下鉄のホームにまで追いかけてくる!
スポーティだ。

危機の名においてコモンを帝国資本に売り払う。
これは新自由主義の常套手段であり、もう誰にも通用しない嘘である。

「経済危機だからシートベルトを締めてくれ」
「ふざけるなファック・ファック・ユー!」

ところで日本。
あれほどやかましかった経済危機の恫喝がなりをひそめている。
なぜだろう? 日本は新自由主義の悪夢をくぐりぬけたのだろうか?
否。きっと経済危機という悪ふざけすらもはや言えない状態なのである。

アポカリプスとかそういうことではない。
原発事故の対応がそうであるように、
否認に否認をぬりかさねたすえに
みっともなく日本国家資本主義は終わるのだろう。


2012年9月24日月曜日

カネをオキュパイせよ


En direct de Mediapart : Toni Negri dans le... par Mediapart

『コモンウェルス』仏訳出版にさいしてなされたメディアパルトによるネグリへのインタヴュー。「重要なのは権力を取ることではありません。重要なのはエリゼ宮を取ることではなく、銀行を取ること、フランクフルトの銀行(欧州中央銀行)を奪取することなのです」(32:20~)。

ネグリは18世紀に遡及しつつ大革命の標語のかたわらに「ウェルフェア」の文字を書きくわえる。自由・平等・友愛・ウェルフェア。「絆」キャンペーンや「食べて応援」キャンペーンのもとでわれわれは卑屈になる必要はない。ウェルフェアという自然権を行使すればよいのである。どうすればよいか? ネグリ的直接民主主義のヴィジョンのなかで、ウェルフェア闘争は間接的な政治機関に向かうのではなく、直接的に銀行へと向かう。そう、被曝地帯で生きる自由を拒否し、皆で被曝する平等をしりぞけ、食べて応援させる友愛の強要をふりはらい、放射能のないウェルフェアを生きるためにはカネが必要である。自然権を行使する勇気を持とう。コモンウェルスへの直接行動を。カネをオキュパイせよ。


2012年9月20日木曜日

反借金、その戦術

インターネット上で「借金に抵抗する人のためのオペレーション・マニュアル」というパンフレットが出回っている。著者はOWSのアノニマス・コレクティヴだという。学生ローンで借金まみれの学生さん、未来を黒く塗りつぶされたポスト学生さん、要注目ですよ!  Occupy Wall Street/Strike Debt: The Debt Resistors' Operations Manual

2012年9月17日月曜日

ノー・アイディア


このうみきらい!
(3歳になったばかりの甥)

いったいいつまで頭のよい人たちの新たな意見に耳を傾ければよいのか。いったいいつまで優れた作家の新作を待ち望めばよいのか。いったいいつまで大好きな監督の新作を待ち構えればよいのか。いったいいつまで新製品を製造し流通させ販売しお給料を貰い生活を整え続ければよいのか。いったいいつまで...
どんなに精緻で優れた現状分析もどんなに身震いする素晴らしい作品もわたしたちの内部被曝の進行を止められやしない。当たり前だと言われれば当たり前。甘えるにもほどがある。けれども今回ばかりは日々生まれる「新製品」を止めてもよいのではないか。数多の「新製品」を弄ぶことでこの生活を成り立たせ果ては日々の被爆を継続させることになんら歯止めをかけることができていないのならば。「新製品」を止めるとは具体的にどうするのか。そんなことこちらに聞いて貰っても困る。よいアイディアなんてあるわけない。わたしたちはこれまでもノー・アイディアだったしこれからもノー・アイディアだ。次の段取りを想像することすら疎ましい。考えられない。頭わるいし。
「モン・パリ」(ジャック・ドゥミ)である日突然つわりに似た症状を訴えるマルチェロ・マストロヤンニは男性の妊娠について研究している産婦人科医に妊娠4ヶ月と診断される。ついに男性が妊娠したという噂は学会発表から新聞、テレビとまたたくまに広まりパリのあちらこちら、そして世界中の男性にもつわりの症状が現れ始める。臨月を迎えるころマストロヤンニの妊娠はまったく気のせいでお腹の膨らみは脂肪だったことが判明する。それでもこの冗談みたいな「男性が妊娠した」という噂を聞いたフランス中、世界中の男性が「つわり」を感じ始めるエピソードこそこの映画の肝ではないか。
放射能まみれの終わらないこの生活を終わらせた後はどんな生活になるのかはさっぱり思い浮かばないし生活しなければならないのかも知らない。それでも新しい巧緻で精確なひとの意見の生産を続けていてもどんどんぶらぶら病の症状が悪化するだけさ。せめてマストロヤンニの妊娠みたいにたった一度の荒唐無稽のでっち上げで世界中に「おしるし」が現れる。そんな批判でも分析でも創造でもないパッションをつわりとして拡げることはできないのかしら。できないな。もうよくわからないよ。


2012年9月15日土曜日

欲動の政治

マルチチュードは欲動を生きる。ところが左翼には根強い欲動嫌悪がある。左翼によれば、欲動とはなにより反知的であり、盲目的であり、ポピュリズム的である。したがってたとえばフランスのル・ペン家族、イタリアのベルルスコーニ、オーストリアのハイダー、スイスのブロハー、アメリカのティー・パーティ、オランダのワイルダー、フランドルのフラームス・ブロック、そして日本の石原や橋下といった極右政治装置は、欲動につらぬかれたコントロール不可能なマルチチュードが作動させているということになる。左翼にとってポピュリズムはあくまで軽蔑の対象なのであり、ポピュリズムを稼働させる「象徴的貧困」は頭のいい文芸共和国によって治癒すべき対象なのである。

だが、われわれは理性の黄金時代を生きているのではない。スピノザの時代から、政治の賭け金とは「欲動の政治」(シトン)であった。それゆえスピノザは「情動」から思考したのである。スピノザの究極の指令語はこうだった。「悲しみの数よりも喜びの数を多くかきあつめよ」。重要なのは、この無敵の欲動政治の核心には「圧力の政治」(シトン)が存するということである。スピノザが言いたいのは、悲しみよりも喜びのほうがテンションが高い、ということなのだ。つまりはどういうことか? 左翼はテンションで勝負せよ、ということなのだ。エジプト蜂起を想い起そう。そこで露呈したように、統治システムがどれほど静的に構造化されているように見えたとしても、じっさいはそれは準安定状態のまま打ち震えているプラトーである。タハリール広場で緊張感が圧倒的な高まりをみせたとき、従来のシステムはメルトダウンに達した。そのとき「堪えがたいもの」は分子となってエジプトの大気中を舞いはじめたのである。「堪えがたいもの」は民衆にもムバラクにも同じように知覚されたはずだ。こうしたテンションの高まりによるプラトー状態=メルトダウンの持続こそが21世紀の(反=)政治のエチカなのであり、ムバラク退陣といった革命的「出来事」はたんなる事後的な指標にすぎない。

右翼は自己や他者の悲しみを糧にして生きる以上、テンションはひくい。だが、そうした右翼の欲動政治にたいして、理知の高みから軽蔑するという左翼のポーズは過去のものである。左翼もまたみずからの欲動政治を創出しなければならない。なぜなら左翼の使命はなによりもテンションを高めることにあるからであり、テンションにおいて右翼を凌駕し、システムをメルトダウンさせ、堪えがたいものの分子を飛散させ、そのフォールアウトを知覚させることにあるからである。ティクーンはそうした欲動政治に「蜂起」の名をさずけた。レジームチェンジは何度でも到来するだろうし、出来事は幾度となく生起するだろう。だから、わざわざ出来事の政治をもちだすことは不要である。「ファック・ザ・ポリス!」を壁にスプレーする若者が生きているもの、それが左翼の欲動である。放射能だけが堪えがたいのではない。すべてが堪えがたい。文芸共和国をけちらせ。カオスモーズを。

2012年9月12日水曜日

オキュパイ一周年によせて



じつは原発を止めるのは簡単である。
現場の人間が停止動作を行えばよいだけだからだ。
国家政治の判断など俟たなくてもよい。
たとえば、官邸前の20万人が大飯原発のエンジニアたちに会いに行ってこう言う。

「原発を止めてくれ。」
「あなたたちの身の安全はわれわれが絶対に守る。」

装置にはそれを操作するエンジニアがかならずいる。
そのエンジニアに装置停止の決断をしてもらえばいい。
ウンコみたいなメタ=アイヒマン(官邸)に原発停止をお願いするよりも、
アイヒマンに直接お願いしたほうが話ははやい。

「やつらの世界をブロックせよ、
われわれの世界をときはなち、やつらにけしかけよ。」
オキュパイのあるバナーはこう告げる。
じっさい、われわれの世界はつながれた犬のようである。
くさりは政治である。

政治を切断せよ。
反=政治の犬をときはなて。
政治の名のもとに、いつまでわれわれは無力を装わねばならないのか。
社会の名のもとに、いつまでわれわれはかしこいふりをし続けるのか。

われわれの実力をときはなて。


2012年9月7日金曜日

被曝せよ!労働せよ!借金せよ!

10月にIMF年次総会がチャポンでひらかれるという。
奴らのメッセージはこうだ。被曝せよ、労働せよ、借金せよ。
さまざまな流儀で無数のファック・ユー!を叩きつけるべきである。


佐々木滋子というマラルメ学者によれば、
アナキストは文芸共和国の住人ではないという。
書物主義を標榜しつつ、アナキストの「みぶり」は書物から排除する。
フェネオンもマラルメも舐められたものだ。世の中にはとんだ共和国があるものだ。

「みぶり」があらゆる蜂起のデュナミスである。
警察に追跡され変電所に逃げ込んで感電死した少年たち。
路上で果物や野菜を売ろうとして警察に品物を没収され、焼身自殺をはかった青年。
こうした「みぶり」は語られ、多少なりとも文脈から切り離されてイマージュにおさめられる。
それはモノ化される。だが同時にそれはデュナミスをはこぶ。共鳴をよぶ。

わたしが演奏しているのではない。楽器がわたしを演奏しているのである。
ミュージシャンならば誰しもそうしたランボー的瞬間を経験したことがあるはずだ。
思うに、デュナミスそのものであるような「みぶり」はそうした瞬間に生じている。
そのとき、歴史の墓場である「作品」はこなごなに砕け散り、 イリュミナシオンの即興がはじまる。
だから、さらなる圧力をくわえよ、重力をくわえよ、関東に重いむら雲を生じさせよ。
関東圏というメトロポリスはいまや圧力鍋のようである。
文芸共和国というココットはいまにもメルトダウンしそうだ。

「移住したい、だが何処へ?」
「被曝したくない、だが金がない」
「文学部の教授が文学がすべてだと言う」
「書物がすべてというのなら書物をおれに買ってよこせ」
「シングルイシューというよりすべてが敵なんですけど」
「院生相手の現代思想屋がもっともらしいことを言っています」
「歴史に残りますか。あーそーですか」

ハムレットたちの独白はみぶりのデュナミスへと転化するだろうか。
ハムレットたちのふるさとは文芸共和国ではない。カオスモーズである。
そう、覚悟がすべてだ。発火点をさがせ。

2012年9月3日月曜日

知識人の誕生



50分から質問をくりだす男性。
われわれは知識人の誕生に立ち会っている。その雄姿を見よ。

2012年9月1日土曜日

権力をおれにくれ

権力をおれにくれ
絶大なる権力をおれに
そうすれば日本を南仏にしてやる
おまえらがあまり働かなくてもいいようにしてやる

ニース…
マントン…
カンヌ…
そしてモナコ…!

社会問題は夏休みの宿題のようだ
日々のニュースを見るがいい 日々のつぶやきを見るがいい
社会に目を向けよという 他者に目を向けよという
それは優等生たちの発言である
手ぶらのまま気まずい始業式をむかえるわたしたちは言う
(「先生、エートスはいらないとおもいます」)
(「先生、移住は宿題に答えたことにはなりませんか」)
優等生たちよ 原発をあと一週間で止めてくれ
反原発運動をこれ以上長引かせないでくれ
大人のヒロイズムもここまで続けば鼻白むというもの
毎週金曜日? 毎日やれ! 24時間やれ!
なぜなら わたしたちはいますぐ南仏計画をおしすすめたいのだ!

南仏! 南仏! 
恋人たちの南仏!
劣等生たちの南仏!

でもね 放射能がばらまかれたから南仏化は無理だね
月光の浜辺で恋人たちが秘密の寿司をつまむ
そんなビーチ寿司はもう無理なのだ
おお! 労働と放射能!
終わらない被曝社会運動!
われらが暗黒の未来よ!

にゆあんす。

ラモーンズは、イギリス人を、カラッと、殺しにいくような音楽をやったんじゃないだろうか。
じめっと、復讐みたいな音、ラモーンズ、してないsi。
そこに、初期パンと他人に名付けられた難民のひとが沢山いて、ラッとした殺しが染みて、なんか、もりあがっちったんじゃないだろうか。