hapax

2012年7月25日水曜日

自分の老いを老いよ



「そのフィルムのシークェンス全体が反復として開くものを不思議な温泉のようなものとして想像してもよいでしょうか、そのお湯の中では誰も彼もが「生き返る」のですが、その条件として、そこには如何なる未来も許されておらず、如何なる未来も夢想においてすら練られることがない、そんな温泉を。」(シェフェール)

よりよい会社などないようによりよい社会などないことがはっきりしたが会社だ社会だの前に被曝に怯える日々。細心の注意を払おうが多かれ少なかれ内部被曝は続いてゆく。ムスメの保育園では水筒持参はムスメたったひとり。他の子たちは水道水をがぶがぶ飲み、牛乳もしいたけももりもり摂取。
これから数年後あらわれる晩発性障害は死ぬほど痛かったりそのまま死んでしまったりするのか。
被曝することは「老化を早める」ということらしい。被曝しながら被曝のことを考えることほどばからしいこともないが、われわれが毎時毎日翻弄され続けている「被曝イメージ」のすぐ隣には「老後に対する不安」がしれっと張り付いている。思えば日々の糧を得るためと称して愚かにも一日の多くを占める社畜時間には「明日は老後」とでもいえそうな直近の未来への不安が漲っている。いってみれば社畜時間は老後のための時間の謂いなのだ。もちろん「老後」なんてものはアカルイ未来や素敵な社会やいい会社と同じくらいマヤカシに過ぎないのも重々承知の上でこの「老後」と執拗に付き合わされている。フクシマで原発が爆発する。社畜時間は放射能塗れになる。ここに「被曝と老後」という極悪同盟が誕生する。
被曝することは「老化を早める」ということらしいが、ただでさえ老後に怯える社畜時間は不安の対象となる未来が益々現在に近くなり時々刻々と老後に怯えるような感覚をもたらし始める。この極悪同盟によって社畜は目の前の老後に怯えつつ今現在の内部被曝への恐怖に完璧に押しつぶされ放射能による死因で死ぬ前に死んだも同然になる。
被曝しながら被曝のことを考えるバカバカしさも毎日続けていればホントのバカになるもの。死んだも同然の社畜時間に隙き間を作って子育てしていると気づく。子供こそがものすごいスピードで老いている。大人になるにつれそのスピードは遅くなり、老人はほとんど「老いていない」。「老い」は老人のものでない。「老い」は老後に関係ない。毎行改行する散文のリズムのようにただひたすら世界にたいしていちいち出会い直す子供の時間こそが老いなのだ。
であるとするならば被曝が最終的には痛くて苦しい死まで追いつめてくる「老化を早める」という作用は「老いは子供のもの」というバカな親でも直感した事実を隠蔽するために強力にはたらき始めているように見える。
西暦もなんのその放射性核種の半減期がそのまま放射能歴とでもいえそうな暦を生き始めたわれわれはその途方もなく大きいカレンダーを眺めつつも一秒後の内部被曝に怯える生活を続けることになる。
それでも「子供の生」としての老いを再び生き直すことはできるのか。できないのか。そんなこと考えること自体結局バカのすることなのか。なにも分からない。ただ、30代から「おじいさん役」を演じた笠智衆はそのことを体現していたような気もするし、彼を使い続けた小津安二郎は子供が老いる時間を大人の役者を使って凝視していたような気もする。
自分の老いを老いよ。

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