サンディカの人称か、民衆の非人称か。
しばしばこうしたアルタナティブが語られる。
しかも、後者のほうが優位であるかのように。
だが、ここには嘘がある。
考えてみよう。
汚染食品の流通も、汚染地帯の学校や大学の運営も、
サンディカが現場をサボタージュすれば生じなかった。
社長や学長の指令を退けることができるのはサンディカ本来の力能である。
もちろん、サンディカリストたちはこのことを意識していた。
意識してなおかつ非力だから夜に「みんな」になる。
そして意識をこじらせる。まるで、
「みんな」の非人称がサンディカリスムの人称性よりも優位であるかのように。
ゼッケン左翼を小馬鹿にしつつ。
ノボリを立てないことがさも重要なことであるかのように。
だが、非力の別名であるような「みんな」などいらない。
そして「みんな」のなかで出くわすのはいまだに顔、顔、顔の人称性である。
サンディカリスムか、みんなか、どちらかを選ぶ必要はない。
顔のないサンディカリスムがある。
それはシンジケートという別名をもつ。
シンジケートは力能の夜の共産化である。
国家や社会に要求するかわりに闇の共産主義となる。
国家資本主義とは別のフローを組織するのである。
労働者によるぶんどり共産主義。
資本を共産化し、ひととものの別の流れをひそかに組織すること。
サンディカリスムはシンジケート主義として生まれ変わる。
共産化すべきは知性だけでもベクレル数値だけでもない。
労働者諸氏にはやってもらわなければならないことがたくさんある。
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