hapax

2012年8月20日月曜日

首都政治

反原発を唱和し、都におけるガレキ焼却はスルーする。
これが都民の「知性」であり、都民による首都政治である。
北九州市や大阪市をはじめとするガレキ焼却反対の白熱を想起しよう。
都民の態度は何かをなめている。何かをばかにしている。
旧来の現代思想は「革命せよ、蜂起せよ、暴動せよ」という。
だが、東京でいかなる出来事が生じようとも、それは再領土化にすぎない。
恥というのか。屈辱というのか。それは都民を外からながめるわれわれのセリフである。
被曝を拒否するという革命以外に、蜂起以外に、暴動以外に、
革命も蜂起も暴動もない。
ひとは「大人として」「子供のために」と主張するだろう。
ちょっとまってくれ。そのおまえが大人を僭称するのか?

おまえは大人でも子供でもない、ただの装置ではないか……?

被曝が戦争への加担である。
反被曝の徹底が反戦争であり、反原発である。
それをスルーしておいて、何が革命か、蜂起か、暴動か。
ガレキ焼却ぐらい止められずに何が反原発か。
おまえのいう「子供」が聞いてあきれるぜ。
きみたちにマスクは不要のようだ。
都民の知性に乾杯。

2012年8月13日月曜日

あの中間管理職が主催者なのか?

首相官邸前デモの主催者がウザいといっているやつをよくみるが、主催者かどうかはしらないけど、官邸前にウザい連中は、ま、いた
そいつは、なぜか交差点で交通整理をしていたり、なぜかデモのくせにオレを歩道に押し込めたり、なぜか歩道に通路をこしらえて、通路は止まらないでくれ、だってそれって社会のマナーだろ?マナーはまもろうぜ!みたいなノリの不思議なオーラ出してるやつ。。で、反原発!とかいうの。
ま、オレが、あいつらがウザいのは、放射能まみれの被爆地帯で、Let’s  安心・安全街づくり条例だよ!なのがウザい。
つまり、なんだ?
東京ローカルの条例みたいな発想で、とりあえず原発が止まれば、被爆社会でもなんとかやっていけるよねッ!みたいなとこ。
みんなでマナー(不思議!)をまもって原発を止めてもらえるように〜、反原発!ぼくらのこと、正しいって思ってもらえるように〜、反原発!みたいな、、、ま、おめでたいところ。
ま、手当がない中間管理職(平)みたいなこと率先してやってるみたいにみえるけど、小学校いってたときにも、一人ぐらいいただろ?そういう学級委員みたいなやつ。
サブくね?
被爆社会だっつーの。どろっ泥の!
で、主催者がウザいといっているやつは、主催者が反原発運動に電波はいらないといったり、反放射能を疎外していたり、そういう主催者がわれわれは99.9パーセントだなどと言ったりしている(らしい)ことを指して、ウザいといっているみたいだけど、オレがウザいと思ってるあのアホ中間管理職(ま、0.01パーセントぐらい?)のやつが、反放射能のオレの代表です!なんていってんだとしたら、オレは聞いたことがないから、もし、そんなことだったら、オレ、チョーびっくり、チョーめいわくなんですけど‼で、オレがウザいあの中間管理職が主催者なのかしら?だとしたら、数え方まちがってんじゃね?

2012年8月11日土曜日

teengenerate以降のバンドについて

teengenerate以降のパンクバンドについて

前回の記事では、やたら固有名詞を連呼しているだけのようで反省。
さて、teengenerate以降のバンド、ということだが、どうも最近酒の飲み過ぎ(もともと弱い)で、脳みそが小さくなって色々だめなのでなんとかまだ思い出せるうちに。
teengenerateは後追いなので、たまにイヴェントとかで演る再結成のときしか見たことがない。しかしユーチューブやライブ盤で聴けるそれは、いつ聴いても衝撃(shock!!)以外のなにものでもなく、それはまあ、すごい。しっかりとしたパンク、ガレージパンクがとにかく矢継ぎ早に、めちゃくちゃテンポ早く演奏される様は圧巻。すごすぎる。バケモノだ。teengenerateの持っていた、熱、が、その後のバンド達に受け継がれていったと思う。teengenerateは7inch出しまくって、95年年末?にあっさり解散。その活動に前後して出てくるregistratorsは、極初期の、bumにも通じるpop punk〜メロディック(set me freeはスナッフィースマイルから!)、1stアルバムのキラーパンク(アメリカのリップオフスとも共通する流れ)、2ndのパワーポップの感覚とハードパンク、3rdからはパンクロックを進化させたようなギターロックをやりつつ、レコーディングの概念をあっさり塗り替えるような音源を連発。ことばにしてみると安っぽいけど、これは書いてる文章がだめなだけで、ほんとうにregistratorsはすごい。brightlinerを経て今はsmallspeakerですが、なんにもブレてない。ぜんぶ正しい。奇跡みたいな音楽です。そのregistratorsが始めたライブの企画でクロロフォルムというのがあって、やはり後追いなんだけど、それに関わったバンドや関係者の証言を読むと、やはり尋常ではない、熱、が発生していたようだ。西暦2000年頃にようやくそれを体感するのだが、やはり、熱以外のなにものでもない。ad viceというコンピがそれをあらわしている。
それに参加しているバンドは5つ。
Firestarterは元teengenerateのバンドで、よりパワーポップやソリッドなパンクロックで、普遍です。最初みたときとにかくおっそろしくて、ひとのひとりやふたり普通に殺してると思った。怖かった。
インティメイトファグスはアメリカンな感じもある、ねじれた感じのパンクバンドで、そこまで熱心においかけていたわけではないが、ああいう感覚は重要だなと思う。今は活動停止中。
レディオシャンハイは、すごく自由な感じで、乱暴に言うと、ニューウェーブでダンサンブルなんだけど、ヴォーカルのムキムキ(ムチムチ?)で体毛やたら濃いひとがポリスみたいな格好で登場したり、ああ、なんでもありなんだなっていうか、感情にうそついちゃいけないんだなって思わされた。ライブはとにかく楽しくて見てて目が奪われた。ベースの女のひとがすごくきれいだった。
そしてzymotics!!!!!!!ユーチューブとかで検索してみてよ!ad viceではパンクロックそのものですごくいいんだけど、しばらくしてゴシック?みたいな感じになって、今どうなってるんだろう?天才というか変態というか、とんでもない。
もうボキャブラリーも底をついてきた。最後、private ways.プログレッシヴ?やたら展開の多い曲構成と、しっかりした演奏。もうかたっくるしい感じにしかならない感じなのに、スカスカなパンク、今書いててわかったけど、スカスカなパンクって、空間っていうか、立体的な感じなんだな。立体的な音楽。字面にするととてつもなくダサいけど。

teengenerate以降のバンドについて


パンクロックミュージックについて

    パンクロックミュージックについて

    パンクロックミュージックについて考察したい。考え方とか、生き方(笑)におけるパンクではなく、あくまで音楽としてのパンクロックミュージックについて。

    始祖としてはまずラモーンズが挙げられるだろう。ラモーンズ周辺のニューヨークパンクについて、パンクと言い切ってしまうのはやや乱暴に感じる。確かに、テレヴィジョンをパンクと捉えるのは大変けっこうですが、そういった行為が、パンクロックミュージックについてややこしくしている。パンクということばを便利にしてしまっている。それこそ津軽じゃみせんもパンク、みたいな。テレヴィジョン(津軽)が嫌いなわけではないが、テレヴィジョンはパンクロックミュージックではないと定義しておく。
    ラモーンズについても、かなりロックンロールの影響が色濃く、パンクロックミュージックとするにはやや違う向きもあるが、デモ音源などで聴ける極初期のものは、紛れもないパンクロックミュージックだ(技術的にコピーできる曲がないから仕方なく自分たちで2コードの曲をつくったetc)。ロケットtoロシアに入っているI don't careのデモヴァージョンなどがそうだ。
    ニューヨーク周辺ではあとはリチャードヘルも近いものがある。それ以外は、テレヴィジョンやパティスミスのようなアート?な方向と、ディクテイターズなどのロックンロールの方向(後のパワーポップ)が多いように思う。

    さて、イギリスではやはりセックスピストルズがあるが、セックスピストルズの音楽性についても、ラモーンズからの影響か、ロックンロールの要素を強く感じる。どっちかというと、ダムドの初期のあたりがパンクっぽいと思う。
    何が言いたいのかと言うと、イーターが、パンクロックミュージックそのものではないか?と思うのである。チャリチャリなギターにやたら高音のベース、理想的なヴォーカル、ドラムはよくわかんないけど、14歳とかなんでしょ?蟻のジャケが有名な1stアルバムは、紛れもないパンクロックミュージックそのものである。
    あとはcortinasとかspitfire boysあたりが純パンクロックと言えるのではないだろうか?別に細かく定義したからどうだっていうわけでもないが、なにかパンクということばを都合よく使うのもなんだかな、と思ったので、少しはっきりしておこうと思っただけである。
    4大パンクバンド?では、ジャムはモッドというには1stなんかはパンク過ぎるし、2nd(最高傑作)や3rdは個人的にギターポップと思う。なんかポールウェラーって、最初曲の作り方がぎこちなくって、あんまり自然に聞こえないんだけどそこが良いのだが段々こなれてくるのが残念。別にいいんだけど。
    ストラングラーズもパンクかというとちょっとだいぶ違う感じ。好きだけど。ゴリゴリとしたベースが格好良い。有名なマイナーなところでは、やはりユーザーズやキルジョイズはパンク!このあたりは発掘したひとがいて知られるようになったので、訳知り顔で語るのもおこがましいところもある(先に挙げたコーティナスなどは勿論)。ユーザーズは1st2nd7inchは完璧なパンクロックで、胡散臭いところも完璧だ。そういった意味では何年か前に出た発掘音源は正直がっかりした。メンバーの写真とかもちゃんと出ててたけど、見なきゃよかった。キルジョイズもやっぱり完璧で、いかがわしさって重要だなと思う。
    あとはワイヤーもすごいいいんだけど、最初の妙な宣言はいらなかったんじゃないかと思う。すごい考えてやってるの?と思ってしまう。
    Generation Xは大好きだが(ベスト盤しか持ってないが...)、パンクロックとは違う気がする。正しい歌謡曲、初期の松田聖子のようなものだ。キラキラした感じは憧れる。ギターのひとになりたい。
    バズコックスは...なんというか、全て。
    また、killed by deathについても色々あるし、teengenerate以降のニホンのパンクバンド達についても考察する必要があるだろう。それはまた別の機会に書かせていただきたいと思います。
    何度も書きますが、別に俺はパンクのなんたるかを知ってるぜ!と悦に入りたいわけでもないし(悦に入っても別にいいけど)、俺のパンク観、お前のパンク観が知りたいわけでもありません。パンクだから好きとかそういうんじゃないし、とりあえずイーターとGeneration Xの素晴らしさを伝えたかっただけです。ベスト盤しか持ってませんが...みんな死ね

2012年8月7日火曜日

サンディカとシンジケート

フリッツ・ラングの『M』(1932年)。学生の時分にはじめて見たが、よく分からなかった。「サイコ・スリラーの始祖? ふーん…」という、ただぼんやりとした印象だけが残った。シネフィルになりたいシネフィル、シネフィル予備軍、シネフィル・ワナビー。つまりは真正のシネフィルだったのである。だから十数年後の現在また『M』を見なおしてみて、あまりにも面白いので驚愕してしまった。『ドクトル・マブゼ』(1922年)や『ドクトル・マブゼの遺言』(1933年)と合わせて自分なりの感想をまとめておこう。

フリッツ・ラングの『M』は、世界恐慌を背景としたポスト=アナルコ・サンジカリスムという歴史的地平に置かれている。恐慌のもとではもはや旧来からのサンディカは機能しない。なぜなら工場自体が倒産してしまったからである。にもかかわらず、左翼政党はあいかわらず党派政治にあけくれるだろう。だからこれ以上「左翼に武器をあずけ」てもしょうがない。だから失業者たちはサンディカではなくシンジケートへと向かう。人々は社会であることをみずから放棄し、暗黒街として自己組織化するのである。

サンディカとシンジケート。フリッツ・ラングは両者のあいだのゆらぎをわれわれに見せる。暗黒街の自己組織化はある部分ではいまだにサンディカ的である。なぜならその母体は倒産した蒸留工場のサンディカであっただろうから。だがその自己組織化はもうストライキを戦術としてパトロンや国家に要求をつきつける労働者のそれではない。人々は要求するかわりに、街区を単位とした闇経済を組織する。国民や市民として団結するかわりに、国家や社会をひそかに出しぬく。「ゼネラル」ストライキに立ち上がるかわりに、決然と分離主義を志向する。こうしたサンディカからシンジケートへの転導において鮮明になるもの、それは社会動員の解除、反社会的なものの漏出、すなわち社会戦争にほかならない。

サンディカ=シンジケートは共同体ではなく共謀体である。制度ではなく、みぶりとみぶりの共鳴である。共謀体がうまくいくかどうかは指令語やヒエラルキーとは関係がない。その理由は、共謀体が国家でも社会でも運動でもないからという以上に、共謀体の命運を決するものが賭けの領分にあるからである。人々の個々のみぶりがそれぞれ賭博者のイニシアティブを帯びるとき、共謀体は運命とたわむれる遊動そのものとなる。国家に住まう国民や社会に住まう市民が見たこともない白熱そのものとなる。くりかえすが、それはうまくいくこともうまくいかないこともある。むろんそうした賭けの勝利と敗北がよろこびなのである。おびえたみぶりや疑心暗鬼は共謀体をむしろ解体へとみちびくだろう。にもかかわらず、ラングのしめすサンディカ=シンジケートはつねにそうした危機と背中合わせである。

じっさい『M』におけるサンディカ=シンジケートは両義的である。国家警察を出しぬいて殺人犯を独自にとらえ、人民裁判にかけたとしても、その裁判はあたかも国家裁判を反復するかのようである。そしてそのサンディカ=シンジケート自体もまた最終的に国家警察につきとめられ、解体をせまられるだろう。他方でフリッツ・ラングが『ドクトル・マブゼ』や『遺言』においてわれわれに物語るように、共謀体という賭けはつねにペテンの危険にさらされている。じじつドクトル・マブゼは賭博者をよそおったペテン師として登場するのであり、彼はすべてが賭けだとうそぶきながらペテンによって賭場=共謀体を横領してしまおうとするだろう。権力への意志はペテンによる賭けの支配としてあらわれるのである。あるいはこのマブゼについてベルナール・アスプとともにこう言おう。すなわち、すべてが賭けとなってしまうならば、われわれはもはや賭けを「始める」ことができなくなる。すべてが戦争となってしまうならば、もはや戦争を始めることができなくなるように。いずれにせよ、そうしたマブゼの存在によって共謀体は内部から崩壊し、「指令語のアレンジメント」(ドゥルーズ&ガタリ)にすぎないものとなる。それはすでにファシズムそのものの姿である。

国家や社会が無能をさらけだした放射能を食えという「メトロポリス」で、われわれはフリッツ・ラングを反復しつつある。放射能が飛来してもストライキひとつ起こせないような社畜しかいない社会において、われわれはゼネスト神話が最後の賭け金であるようなアナルコ・サンジカリスムをこえて自己組織化しつつある。放射能の流通が大手をふるった経済ならば、反放射能の共謀は闇経済である。絆など犬にでも食われてしまえ。出しぬけ、分離独立せよ、シンジケートせよ。指令語を裏切れ、国家にも社会にもなるな。ペテンを追放せよ、ファシストを追放せよ、シネフィルを追放せよ、映画をシネフィルから解放せよ。そしてさらなる賭けを、賭けの再開を、賭けのみぶりを、共謀の白熱を。