hapax

2012年9月15日土曜日

欲動の政治

マルチチュードは欲動を生きる。ところが左翼には根強い欲動嫌悪がある。左翼によれば、欲動とはなにより反知的であり、盲目的であり、ポピュリズム的である。したがってたとえばフランスのル・ペン家族、イタリアのベルルスコーニ、オーストリアのハイダー、スイスのブロハー、アメリカのティー・パーティ、オランダのワイルダー、フランドルのフラームス・ブロック、そして日本の石原や橋下といった極右政治装置は、欲動につらぬかれたコントロール不可能なマルチチュードが作動させているということになる。左翼にとってポピュリズムはあくまで軽蔑の対象なのであり、ポピュリズムを稼働させる「象徴的貧困」は頭のいい文芸共和国によって治癒すべき対象なのである。

だが、われわれは理性の黄金時代を生きているのではない。スピノザの時代から、政治の賭け金とは「欲動の政治」(シトン)であった。それゆえスピノザは「情動」から思考したのである。スピノザの究極の指令語はこうだった。「悲しみの数よりも喜びの数を多くかきあつめよ」。重要なのは、この無敵の欲動政治の核心には「圧力の政治」(シトン)が存するということである。スピノザが言いたいのは、悲しみよりも喜びのほうがテンションが高い、ということなのだ。つまりはどういうことか? 左翼はテンションで勝負せよ、ということなのだ。エジプト蜂起を想い起そう。そこで露呈したように、統治システムがどれほど静的に構造化されているように見えたとしても、じっさいはそれは準安定状態のまま打ち震えているプラトーである。タハリール広場で緊張感が圧倒的な高まりをみせたとき、従来のシステムはメルトダウンに達した。そのとき「堪えがたいもの」は分子となってエジプトの大気中を舞いはじめたのである。「堪えがたいもの」は民衆にもムバラクにも同じように知覚されたはずだ。こうしたテンションの高まりによるプラトー状態=メルトダウンの持続こそが21世紀の(反=)政治のエチカなのであり、ムバラク退陣といった革命的「出来事」はたんなる事後的な指標にすぎない。

右翼は自己や他者の悲しみを糧にして生きる以上、テンションはひくい。だが、そうした右翼の欲動政治にたいして、理知の高みから軽蔑するという左翼のポーズは過去のものである。左翼もまたみずからの欲動政治を創出しなければならない。なぜなら左翼の使命はなによりもテンションを高めることにあるからであり、テンションにおいて右翼を凌駕し、システムをメルトダウンさせ、堪えがたいものの分子を飛散させ、そのフォールアウトを知覚させることにあるからである。ティクーンはそうした欲動政治に「蜂起」の名をさずけた。レジームチェンジは何度でも到来するだろうし、出来事は幾度となく生起するだろう。だから、わざわざ出来事の政治をもちだすことは不要である。「ファック・ザ・ポリス!」を壁にスプレーする若者が生きているもの、それが左翼の欲動である。放射能だけが堪えがたいのではない。すべてが堪えがたい。文芸共和国をけちらせ。カオスモーズを。

0 件のコメント:

コメントを投稿